明恵上人
1173−1232華厳宗の高僧略歴と人となり / 夢記の中より / 明恵と著名人との関係
/ サン・ドゥニの夢分析と関係
略歴と人となり
明恵上人は
19才より亡くなる60才の時までの40年間も自分が見た夢を日記のように「夢記」という書物に書き記した人です。世界的にみてもこのように何十年も夢日記を書き綴った人は記録上にはフランスのサン・ドゥニの2人しかいません。日本においても古来より数多くの人々が夢日記を書き残していますが、その夢は人生においてほんの僅かなものですが、明恵のように夢を毎日のように書き続けた人は世界的にも希です、そして歌集や「摧邪輪」「摧邪輪荘厳記」「喫茶養生記」「三時三宝礼釈」「光明真言土砂勧信記」など宗教書や茶の著述書を書き、日本で最初に茶の普及に努めました。彼は八、九才の時に母と死別し父の平重国は上総にて戦死し、叔父の上覚が文覚上人に仕えていた関係で高尾の神護寺に登り文覚上人に仕えます〔当時は飢饉・戦乱・疫病など幼くして孤児となる子が多く親鸞と同じように寺院に引き取られることが多かったのです〕。十六才の時に剃髪し東大寺において具足戒〔僧侶が受ける戒律〕を受けて東大寺に留まり勉学に励みます。十八才の時には上覚上人より密教の秘法を授けられますが、宗教上の不明な個所があるので質問しますが上覚にはもう明恵には答えることが出来ないほど成長していたそうです。その後明恵は宗教的に行き詰まり夜の月に剣が突き刺さっている夢や、不吉な夢を見つづけるので、なんとしても自分の力で確かめようと経蔵の中で書物をあさっていると経蔵の中より釈迦が残したとされる「遺教経」を見つけだします、そして彼の生涯を遺教経を持経として益々釈迦仏陀にあこがれます、自分を釈迦の遺児とみなし釈迦の源泉にたちかえることを念願しました。
彼は一般の宗教家と違って栄西や親鸞のように宗派を作らず、一遍や空也のような聖の生活にも徹せず、文覚や日蓮のような荒行者でもなく、西行のような歌人でもありませんでした。また当時の僧侶の多く世俗に染まっていましたが彼はそうではなく。一人の人間として、また一人の僧侶として自分が納得し自分の進むべき道を模索し苦悩し探求していった人です。そして生涯筋道だった思想をもたず直接釈迦の御許にかえることが独創的な思想だったようです、今現在も仏教の多くの宗教や宗派は数多くありますが元を正せば釈迦仏陀より出ているものであり、その大元にかえることが彼の理想としたことなのでしよう。生涯に何度もインドへ行く計画を立て実行しょうとするが果たせませんでした。
彼は仏教の勉学に励み、また有名な樹上の座禅図のように座禅瞑想の修行もしました、そして釈迦を理想の人とし、亡き母を慕い〔仏眼仏母像という曼荼羅絵図を母の面影として生涯の持仏としていたそうです〕、そして芸術を愛した人でした。彼は思想や権力によってではなく、彼自身から発する人間性や言動が周りの人々を自然に信頼され尊敬されていったのでしょう。
しかし彼は生涯何度も自分の命を危険にさらします。十三才の時に人は肉体があるから煩悩・苦悩があるのだと自殺を試み、三昧〔墓場の別名〕へ行き山犬に食われようと一夜を明かしますが、山犬たちは傍らにある死骸〔当時は風葬で死体を三昧において置くだけでした〕は食べますが
,明恵には体を嗅ぎまわるだけで山犬は帰っていつてしまいます。また、故郷紀州に向かう途中に癩病人を見て通り過ぎるのですが、後で癩病には人肉が病に利くと聞き、ひそかに刃物を研いで自分の人肉を与えようと帰り道に立ち寄ってみると癩病人はすでに死んでいた話があります。それは釈迦が衆生のためには身命も軽んじたという教えを信じて、ただそのことだけがそのような行為に走らせたと後日述懐しています。明恵が二十三才の年、和歌山県有田郡の白上峰において、日夜修行に励みながらも、このようなことではとても新智に至ることはおぼつかないと「形ヲヤツシテ人間ヲ辞シ、志ヲ堅クシテ如来ノアトヲフマム」〔行状記〕ことを思い、先ず自分の目をえぐろうとするが、盲目になると経文が読めなくなる。次に鼻をそごうとするが、鼻水が垂れてお経を汚しては勿体ない、手を切れば印が結べなくなる、そこで耳ならさして不便も感じまいと、ある夜に形見である仏眼仏母の絵象の前で、右耳を仏壇に縛りつけ剃刀をもつて切り取ってしまいます。「血ハシリテ本尊ナラビニ仏具ナドニカカレリ。其血今ニ失セズ」〔行状記〕と凄惨な様子を伝えています。このことは画家ゴッホの例に例えられますが、明恵の場合は自虐的な意味よりも「如来に供養シ奉ル」行為だつたところが違います。翌日に彼は夢を見ます、釈迦が宮殿の上で、大勢の人々に説法している姿を、まことに気高く羨ましく覚えたので、耳の痛さをこらえつつ、一心にお経を唱えていると、自分も群集の中に入ってしまう心地がした。そこで尚も読経を続けていると、突然あたりが明るくなった、驚いて顔をあげてみると、そこには生身の文殊菩薩が黄金の獅子に打ち乗って虚空に浮かんでいる、「その御丈三尺許なり、光明赫奕かり。やや久しくして失せぬ」と明恵は記しています。明恵は後年に人に語って、自分がいささか説法のようなことが出来るのも、白上の山上で文殊菩薩を拝したからだと言っています。ただ明恵はにこのような夢を見たからとといって驕り高ぶるなというようなことも言っています。とにかく明恵という人は自然の中にも、人の心の奥にも、世の中のありとあらゆるものの内に溶け込むことの出来た人のようです。
密教の場合は夢を見ることが一つの修行になつていますが、それは夢というより観想と観法とかいった方が正しいでしょう、そしてそういった修行が身についてしまった明恵の場合はぐっすり眠っても、やはり霊感を得たようです。そして明恵が十九才より日記をつけるかわりに夢記を書き始めたのも、現世は消えやすい夢と観じ、夢の中に真実の世界があると信じたからでしょう。だからと言って現実ばなれした夢想家ではなく、夢の世界に飛び込み現実にはなし成し得ない体験をした、いわば夢は自分を厳しく反省し鍛錬する道場でもあったのです。そしてこの世では自分ふさわしい師匠に出会えないと見極めたのかもしれません、孤独な彼にとって夢はかけがえのない先生であり、修行の場であり、自らが師であり、弟子でもあつたわけです、夢記は彼の内部で行われた精神的な葛藤の書と見ることもできるものです。
また密教の修行のせいか透視が出来たようです、弟子に向かって今どこどこの場所に雀の巣がある、その巣の小雀を狙って蛇が襲おうとしている、だれか助けにいってやってくれとか。水甕の中に蜂が落っこちた、もがいている可哀想だから助けてやってくれなどと書かれています。
そして明恵五十八才「不食の病」に倒れる。そして死を覚悟するようになるが常人とは違い遺書も辞世の歌もない、死は幼少の頃よりの身近なものであり、また仏教の死は今日を明日につなぐようなものという捉え方ですので死病もさして苦にならなかったようです。その頃の吉夢としては彼自身が善財童子となり華厳五十五箇所を巡礼し、菩薩が大勢いるのに出会って「来世のこと」などを聞きたいと思ったが、いまさら後生(死後)はどうなりますかと、尋ねるのも愚かな気がして夢から覚めている。また菩薩に病気を介抱されたり仏像を呑みこんだりした夢をみているが、五十九才の秋に病状が悪化したある夜に夢を見る。それは大海のほとりに、大盤石が盛り上がったようにそびえ、その上に美しい木が茂り、花や果物が一杯に咲き匂っている。大神通力をもって大海ものともにこの山を引きぬき自分のかたわらに置いたと見るや目がさめた。そこで彼は思う「この夢は死夢と覚ゆ、来世の果報を現世につぐなり」と。
(行状記)それからは死を待つばかりで翌年貞永元年一月十九日に大往生を遂げました。そして高山寺の禅堂院の墓所に埋葬される享年六十才でした。
夢記の中より
○初期の夢…明恵が和歌山の生まれ故郷を離れて高尾に着いた、その夜に死んだ乳母が骨も肉もバラバラになった姿で現れた、平生罪深い女なので、このような姿になったのだと悲しく思い、自分が尊い僧になって彼等の後生〔死後〕を助けてやろうと決心する。またそのころ碩学高い学僧に経文についてわからないことたずねるが要領を得ないのでなんとか知りたいと思っていると、夢の中で一人の僧が疑問の個所を解き明かしてくれた話などがあります。また十二才の時には高尾の神護寺での学僧達にあきたらず、この程度修行では時間つぶしと山奥の幽閑な地にて修行しようと出奔するその明け方に大蛇や蜂がたくさん出てきて邪魔をするので引きかえす夢を見てこれは時節が到来してないと思いとどまる。などの夢を見ますが。子供の頃から常人とは違い明恵の場合の夢は生得的なもので、次第に夢に馴れすすみ、そして夢を馴らしていくようになり、しまいには思うが侭に夢の中に遊ぶ境地に至るのです。
○仏眼仏母の夢…彼は生涯の持仏として仏眼仏母の掛け軸を持つています。仏眼仏母とは仏教辞典をひくと「両眼は微笑し、手を臍に当て、白蓮の中に住ひ、身色月のように輝く」とあり、密教の考え方からか、そこから諸仏が生まれ出て来るという意味で「仏母」の名が与えられています。「明恵」の著者の白洲正子さんが実際に京都博物館の蔵より本物を見た時の事を書きますと…「私の目の前に幅が1間〔
180cm〕もあろうかという大幅の仏眼仏母の絵がするすると開かれた時、先ず目を奪われたのは、妖しいと見えるまでの官能的な、その鮮やかな色彩でした。幾重にも重なる蓮のうてなに、ただようように紅と白緑、(身色月のようにかがやく)肌の感触、仏眼を現す頭上の金の眼、そして全体をやわらかく包みつつ、なお燃え上がろうとする光背の炎、硬いと思った線描は、それらの暖かく、こまやかな彩色になだめられ、静かになって、完全な調和の中に鳴りをひそめている。それは艶かしくも清純な香りに満ちた仏であったのです。」と言っています。そして明恵の歌が一首書き加えています。もろともに あわれとおぼせ み仏よ きみよりほかに しるひともなし
と落書きのように書き散らしています。
この絵はおそらく「遺教経」を得てからまもなく文覚か上覚より譲りうけたものかもしれません。明恵は幼くして父母に別れ母親に異常なまでの思慕を寄せていました、そして美しい仏眼仏母の如来の姿は、恋愛に近い感情を抱かせたに違いありません。彼は一生不犯で通しますが、彼とて木石ではなく度々そういう機会に見舞われたのですが、そのたびに何かの支障が起きて目的をとげることが出来なかった。これは仏様のお陰であると晩年に告白していますが、その仏とは仏眼仏母のことを指しているいるのでしょう。そして只でさえ夢多い上人に、もつとも多くの夢を見させたのもこの如来でした。ある夜の夢には美しい天童が現れて、きれいな玉の輿に明恵を乗せて仏眼如来仏眼如来と呼び歩いたので、さては自分が如来になつたかといぶかしく思ったとあり。またある時の夢は荒れ果てた家の下に無数の毒蛇や毒虫が集まっていたので、恐れていると仏眼如来が現れ自分を抱いてくれたので易々難所を通れたとあり。また馬に乗って険しい道を行ったときには、仏眼如来が手綱を引いてくれたり先導してくれた。そして如来の胸に優しく抱かれて養育される夢や、そのほか、お経を伝授されたとか、自筆の手紙をもらったとか、明恵にとっては「生身の母」にふさわしい存在であったようです。如来自身が現れなくても、蓮の花びらが一枚一枚重なって、虹のように見えたなどとも記しています、これなどはあきらかに台座の蓮弁に刺激された夢でしょう。日想観とか水想観の名で知られているように、密教にはある一つの物に想いを凝らせば、眼前にそのものが見えて来るという修行がありますが、彼の場合は特に強烈であり生まれつきにそういう資質に恵まれていたようです。
華厳縁起絵巻の中よりの夢
この絵巻の全六巻の冒頭の部分です。新羅の僧、義湘と元暁の物語りです。2人が教えを求めて唐に行くところから始まります、旅の第一夜を山中の洞窟で過します、無事に一夜を明かしますが、洞窟と思っていたところは骸骨が散らばった墓場だつたのです、立ち去ろうとしますが外が嵐であった為に已む無くもう一晩泊まることにしたところ、その夜の夢に恐ろしい鬼が現れて2人を襲おうとしました。そこで元暁は翻然として悟ります。昨夜は只の洞窟と思い安心して眠れたのに、墓場と知ったとたん鬼に襲われる夢を見た。一切の物事は、皆自分の心から生ずる「心のほかにし師をたづぬべからず」と志をひるがえし、新羅に止まることにして、義湘はひとり出発する。…という夢物語りが載っています。
華厳縁起より
僧が教えを求めに唐に行くことになった、旅の途中に夜になり宿を求めていたがなく山中の洞窟で一夜を明かすことになった、無事に朝になつたがあたりを見渡すと只の塚と思っていたところが、そこはなんと骸骨が散らばっている墓場だった、が外に出ようとしても嵐しだつたためにやむなくもう一晩泊ることになった、その夜に夢で恐ろしい鬼が現れて襲おうとした、そこで僧は翻然として悟る。昨夜はただの洞穴と思って安心して眠れたのに、ここが墓場と知ったとたんに鬼に襲われた。一切の物事は、皆自分の心から仕様ずる「心より他に師を尋ねべからず」と、志をひるがえして、旅わとどまるこになった。
明恵と著名人との関係
西行法師
は明恵がまだ十八才以前に師の上覚の元へしばしば訪れて会って話しをしていった事を日記に書き記されています。そして西行の歌のことに触れた話しなどが載っています。明恵は西行の言葉の技法ではなく西行の「虚空の如くなる心の上において種々の風情をいろどる」心を学びました。そして西行が桜の歌人なら明恵は月の歌人といっていいほど月の歌を多くつくりました。彼の童心の歌一首。あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
栄西・道元と明恵とは栄西が中国の宗から帰国して禅宗を広めていることを聞き栄西の建仁寺を訪れます、そして栄西より後継になつてくれるよう頼まれますが断ります。彼は名利を求めるような人ではなかったからです、しかし彼は華厳宗でありながら禅宗に近かったです(樹上座禅の絵のように座禅瞑想の修行をしました)、また個人的には道元ほど学門はなかったけれど人間性は道元によく似ています。お互いに面識はなかったけれど道元は明恵の人間性に大きく感化影響されたのでしょう、共に名誉栄達を望まず、深山幽谷にて只修行することを望んだ宗教者だったからです。ただ道元以後の弟子たちが曹洞宗を立て永平寺を本山としたのでした。
法然と明恵との関係はよくなく、法然は明恵より四十も年上で比叡山に学び智恵第一と言われるほどの学僧だつたそうです、専修念仏に開眼し人間の本質を「煩悩具足の凡夫、罪悪生死の衆生」に置き只南無阿弥陀仏と弥陀にすがり唱えれば救われるという易行である他力の教えを広めたのです、そして「選択念仏集」を出しますが。明恵はその教えが仏法の堕落につながること、法然が菩提心を不必要と言ったこと。念仏宗以外の宗教を群賊呼ばわりした事に反発し「邪を砕く論」を出します。法然も明恵も共に切実に本物の宗教を本物の信心を乞い求めてのことです。
後鳥羽上皇や建門印礼門院などには戒を授けます、建永元年に後鳥羽上皇より明恵が三十四才時に京都の栂尾に高山寺を賜り高山寺に住む、そして東大寺(華厳宗)の尊勝院の学頭になる。
北条泰時と明恵の関係は承久の乱の時に敗れた京都の天皇方の人々をかくまったとの事で、高山寺にて明恵上人とも知らずに捕らえられて、六波羅探題の将軍北条泰時のもとえ引きたてられますが、熱心な仏教信者で以前より会いたかった明恵にこんな形とはいえ会えて北条泰時は喜びます、そして明恵に以前より自分が疑問と思っていたことや知りたかったことなどを尋ねます。それ以後は二人の間には歌や文通が明恵の死ぬまで続きます。また北条泰時より丹波国の荘園の寄進申し入れがありますが、明恵は宗教者が豊かになることは堕落につながると固く辞退します。そして承久の乱後の明恵(50才)は高山寺の裏庭に蟄居します。
サン・ドゥニとの関係と夢分析
サン・ドゥニは明恵のような宗教家ではなくフランスの貴族で心理学者であったそうです、そのため夢の研究のために自ら試験台として夢見ることを実験した人です。心理学者の宮城音也氏に著書によると、サン・ドゥニは「夢を意識的に見ること、つまり夢を見ようと思えば夢を見ることが出来たし、夢を見ていることも意識することもできた」そして「睡眠には必ず夢が伴うものであり夢を見なかったということは、実は思い出せないためであり、忘れてしまったためだと主張しました。」その実験は最初から成功したわけではなく、記録しはじめてから六週間は不完全で一夜の夢を全く忘れることが多かった。三ヶ月目あたりから、次第に記憶が確かになっていき、百七十九日目以後は後で思い出せない夢は一つもなくなつた。そこで他人にも試してみて自分の説が正しいことを証明したのですが、宮城氏は「サン・ドゥニは夢に対する興味が強くなるために、夢が出現してくるのではないだろうか、大多数の夢の研究家はこう考えず、夢についての特殊な記憶力、夢を思い出す習慣が養成されるというのである」とあります。以上の説はいずれも明恵の場合にもあてはまります。ふつうの人の夢は何でもない些細な出来事を混み入った形で再現する
(雑夢)といいますが、明恵の夢は反対で自分にとって重大な問題しか現れず過去の記憶より明日の生き方を教えられることが多いです。例えばある夜の夢に「老死」という死人が現れ、それを乗り越えようとするが、怖くて足がすくんでしまう。数日を経て、また同じ夢を見て今度は超えようと思ってその傍らに行くと以前のような恐怖は感じられず、身を躍らして「老死」飛び越えることができた。また別の夢では夢の中に一つの塔が現れた、一層目からだんだん上へ登って行き九輪の天辺へ手をかけた途端に目がさめた、そして二十日あまり経て再び々夢を見た、今度は九輪の突端まで登りつめ、ほっと下界を見下ろすと十方世界がことごとく見渡せれ、日や月が下の方に輝いていたという。このような夢は枚挙にいとまがありません。彼の夢は夢に対する興味というより信仰と呼ぶべきであり、別言すれば明恵の夢は夢が夢でなく覚めているときの生活の延長であります、そして夢と日常生活が不思議と交じり合い絡み合っていく様子は複雑な唐草模様を見ているようです。白洲正子著「明恵上人」より
参考 高山寺…京都市右京区梅が畑栂尾町
(現在は真言宗の寺です)|
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