宇治拾遺物語巻第一 

伴大納言の事 4

 これも今は昔、伴大納言善雄は、佐渡国の郡司の下僕である。その国で善男は、西大寺と東大寺とをまたいで立ったことを夢に見て、妻女にこの話をした。妻は、「あなたの股が裂かれようということでしょう」と夢判断をしたので、善男はびっくりして、「つまらぬことを話してしまったものだ」と恐ろしく思って、主人の郡司の家へ出かけて行った。すると、郡司はきわめてすぐれた人相見であったが、ふだんはそうもしないのに、その日はことのほかにもてなして、円座を取り出して、向い合いに座るようにお召しになったので、善男はいぶかしみ、「自分をだまして座らせ、妻の言ったように、股など裂こうとするのだろう」と恐れていると、郡司が、「おまえは高貴な地位に昇る相を示した夢を見たのだ。それなのに、それをつまらぬ人に話してしまった。そのため、必ず将来高位には昇っても、何か事件が起きて、罪をこうむるようになろうぞ」と言った。

 そのうちに、善男は縁を頼って上京して、大納言の位に昇った。しかしながら罪を受ける結果になった。郡司の言葉に違いはなかったのである。

 

 伴大納言絵巻より応天門の火事見物を画いた図です、左上が黒煙です。

 

宇治拾遺物語巻第十

伴大納言が応天門を焼く事114

  今は昔、清和天皇の御時に応天門が焼けた。人が放火したのであった。それを伴善男という大納言が、「これは信(まこと)の大臣のしわざである」と朝廷に申し出たので、その大臣を処罰なさろうとした。その時、忠仁公良房は、政治のことは弟の西三条の右大臣に譲って、白川に移り住んでおられたのだが、これを聞いて驚かれ、御烏帽子直垂のまま乗換えの馬にお乗りになって、乗ったまま北の陣までおいでになり、帝の御前にまいられて奏上した。「このことは申す者の讒言でもございましょう。大臣を罰するような大事になされることは、まことに異状なことです。こういうことは返す返すよく糾明して、真偽のほどをはっきりさせてから処置なさるべきことです」。そこで帝ももっともとお思いになって検べさせられると、大臣の嫌疑は決定的でもないことであったので、「信の大臣をお許しになる旨仰せ出せ」という宣旨を承って、忠仁公はお帰りになった。

 左大臣は過ちを犯したはずもないのに、こういう無実の罪をこうむるのを心に嘆いて、束帯をまとい、庭に荒薦(あらごも)を敷いて出て、天帝に訴え申しておられた時に、お許しの御使いに頭中将が馬に乗って駆けつけて来たので、「早速に罰せられる旨を伝える使いよ」と思い、家じゅうの者が泣き騒いでいるところに、お許しになる旨を仰せになって帰ったので、一転して尊び泣きとなり、大変な騒ぎであった。左大臣は、許されはしたが、「朝廷にお仕え申していると、とかく無実の罪にあうことにもなるのだ」と言って、もとのように御精勤もなされなかった。

 このことについては、先年秋のころに、右兵衛の舎人なる者が東の七条に住んでいたが、役所にまいって、夜ふけに家に帰ろうとして応天門の前を通りかかったところ、人の気配がしてひそひそささやく声がする。廊下の脇に身をひそめて見ていると、柱からずりおりて来る者がある。怪しく思って見ると伴大納言である。次にその子がおりる。また次に下部の豊清という者がおりる。「いったい何をしておりるのか」と、まるでわけも分らずに見ていると、この三人はおり終るやいなや、一目散に走りだした。南の朱雀門の方に走り去って行ったので、この舎人も家の方へ帰って行ったが、二条堀川のあたりに来ると、「大内の方が火事だ」と、通りの人々が騒いでいる。振り返って見ると、内裏の方角と見える。走り帰ってみると、応天門が半分ほど燃えているのであった。「さてはさっきのあの人たちは、この火をつけようとして登ったのだな」と合点がいったが、なにせ人の身上に関する重大事であるから、口を閉じて絶対に話さずにいた。その後、「左大臣がなさったことだ」と言って、「罪をこうむりなさるだろう」ともっぱらの評判になる。「ああ、あれをやった犯人は別にいるのに、ひどいことだなあ」と思うが、言い出すべきことでもないので、気の毒に思って過しているうちに、「大臣が許された」と聞いたので、「罪のないことは最後には免れるものなんだ」と思ったのであった。

 こうして九月ごろになった。ある時、伴大納言の出納をつかさどる役人の家の幼い子と、舎人の子供とが喧嘩をして、出納係の子がわめくので、舎人が出て行ってなだめようとしたところ、この出納係も同じく出て来て、舎人が見ていると、寄って来て二人を引き離し、自分の子をば家に入れ、この舎人の子の髪を取って地べたにうち伏せて死ぬほど踏みつけた。舎人が思うに、「自分の子も相手の子も、とにかく二人とも子供の喧嘩なのだ。それをただそのままにしておかずに、自分の子だけをこんなに情け容赦なく踏みつけるのは、まったくひどいことだ」と腹を立てて、「あなたはなんで情け容赦もなく、幼い者をこんなめにあわせるのか」と言った。すると、出納係が、「おまえは何を言うか。たとえば舎人ふぜいのおまえのような役人をおれが打ったからとて、どうということもないんだ。わが主君の大納言様がいらっしゃるからには、どんな過ちをしても、何事も起りはしないのだ。ばかなことを言う野郎め」と言う。舎人も大いに腹を立てて、「おまえは何を言うか。手前の主人の大納言を偉いとでも思うのか。おまえの主人は、わしが口を閉じているから人並にしておられるのを知らぬか。わしが口をあけてしゃべったら、おまえの主人はただではすむまいものを」と言ったので、出納係は腹を立てかけたままやめて、家に入ってしまった。

子供の喧嘩に入り込もうする図です

この喧嘩を見ようと、隣近所の人々が群がって聞いていたので、「あれはいったいどういうことなのか」と、あるいは妻子に語り、あるいは次々に語り散らしてえらい評判になったので、巷間に広まり、朝廷のお耳にまで達して、舎人は呼ばれて尋問された。初めのうちは抗弁していたが、自分も罪を着なければならないと言われたので、ありのままのことを申し述べてしまった。その後、大納言も尋問されなどして事が発覚して、配流された。

 応天門を焼いて信の大臣のしわぎにして、この大臣に罪を負わせて、首席の大納言である自分が大臣になろうと計画したことなのに、かえってわが身が罪をこうむってしまったのは、どんなにくやしかったことであろう。

伴大納言と応天門炎上事件

 平安時代末期の伴大納言善雄の応天門放火事件は清和天皇の(866年)3月10日の夜、宮城の大極殿前面の応天門が炎上するという珍事が起こったが、この火災は実は伴大納言善雄が自分の政敵である左大臣の源信(みなもとのまこと)をおとしいれるための仕業で、伴大納言はこれを源信の放火として告発した。その後真相が暴露されるや、善雄は伊豆に流された。尚、伴大納言絵巻の三巻は当時の事件の模様を始めより連続して画かれており、日本の絵巻物としては信貴山縁起絵巻、鳥獣戯画などとともに代表的なものに属します。

 

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