
今・・・君は何処で誰といるだろう・・・?
私が社会人になった1983年の春。
妹の読んでいた雑誌の「文通」のコーナーにふざけて投稿したら、掲載され、けっこうな数の「文通希望」のお便りが届きました。
その頃 数年続いていた山口県からのお便りが、ほぼ終了の形となっていたので、また新しく文通なんかを始めてみようかと、数多く寄せられたお便りの中から、まじめに手紙を書いてくださった一人の女性を選びました。
福島県在住の高校3年生の女の子・・・と言った方が正解かな?
しかし社会人になっても文通・・・今の携帯による電子メールの世の中からは、想像できないですね。(笑)
彼女はまじめでした。きちんとした文章で、私の出した手紙にひとつひとつ丁寧に返事をくれました。彼女 学校でブラスバンド部に所属しているらしく、私も中学時代に同じ部に所属していたこともあり、話題には事欠きませんでした。
文通を始めたその年の暮れ。
彼女は来年卒業です。
文通の終了はこう言った生活の節目の所で、何の断りもなく 終了するものだと、私自身 経験をしていましたので、彼女との文通も、後 長くて3月ごろまでかな?と思いながら、仕事から帰った後に部屋でペンを走らせていた記憶があります。
年の明けたある手紙に 「卒業したらどうするの?」
・・・と書いたのです。すると彼女からの返事は「東京の専門学校へ進学します」という返事が返ってきました。
え?
こっちに来るの?
これが私の正直な気持ちでした。
過去に文通相手に会ってしまって、ギクシャクしてしまったことがあったので、文通相手を決めるポイントは「無理をしなければ 会えない所に住んでいる」というのが条件だったからです。
昔 爆風スランプの詩で「大きな玉ねぎの下で」というのがありましたが、あの詩は文通をした者しかわからないシチュエーションがあります。
そんなわけで翌年の1984年。彼女は上京を果たします。
彼女はすごいことに新聞配達の奨学金制度を利用し、学校へ通うというものでした。間単に説明しますと、新聞屋さんに下宿しながら朝と、夕方に新聞を配達し その報酬として授業料を払ってもらうという制度なのです。簡単に考えますが、朝と夕方に強制的に時間を束縛されてしまうわけで、夜遅くまで遊ぶこともできなければ、学校が終わった後に遊びに行くどころか クラブ活動さえままならない状況になってしまうことなんです。だから最後まで続ける人は少ないと、聞いたことがあります。まして、途中で辞めるときには、肩代わりしてもらった授業料を残り、全額返済しなければいけないのです。
この奨学金制度で進学すると言うことは彼女から すでに聞いていて、同じような話をしました。しかし彼女は意思が強く、それでも進学すると言うので、ここまで決心しているならば、私も止められる力はありませんでした。
4月彼女は東京の新宿区内にある新聞配達所で下宿を始めました。たぶん友達もすぐにはできそうもないから、まめに手紙を書きました。仕事が忙しいときにはカセットに自分の声を録音した「声のお便り」も送りました。4月はそんなあわただしい中、あっというまに過ぎて行きました。
で、これは自然な成り行き。「会おうか?」と言うことになり 5月のある日。私は新宿行きの小田急線に乗っておりました。大きなラジカセを抱えながら。
彼女が珍しく 手紙にこんなことを書いてきたんです。
「音楽も聴けなくて、夜が寂しい」
だから私はこう返事を書いたんです。
「古くなったラジカセで良かったら あげるよ」・・・と。
新宿に着き、約束の場所(どこだったっけなぁ?)たぶん月並みだけど「アルタ」の前だろうなぁ・・・。だってそこしかわからないから(笑)
声をかけてきたのは彼女から・・・だったと思います。私はきっとわかりやすい顔なんだろうね。
大きなラジカセをもちながらも何なんで、ひとまずコインロッカーにそれを入れて、とりあえずお茶でもしようかと。
そのときに何を話したんだろう?覚えてないや。
夕刊の配達があるだろうと、2時間くらいでおしまいにした覚えがあるくらいかな?
ロッカーからラジカセを取り出し、彼女にプレゼントして、彼女が大きなラジカセを 本当に必死に両手で持ちながら 帰って行く姿を見えなくなるまで見送った記憶があります。
6月には彼女を池袋の豊島園に招待して遊んだ記憶もあります。あの日はあいにくの雨でしたね。
そんな感じで、手紙を交えながら交際が続きました。
こんなことも彼女は言いました。
「茅ヶ崎の海が見たいなぁ・・・。」単純な私は早速 自動車教習所の門を叩きました(笑)会社の社長がさんざん「免許を取れ!」と言っていたにもかかわらず、かたくなに拒否をし 年がら年中オートバイに乗っておりました。なのに急に「教習所に通うから 定時で上がらせて欲しい」なんて言い出すものだから びっくりするだろうね。でも 助手席に彼女は座るどころか 免許も取れなかったなぁ・・・。
時は順調のように流れ、ある日。新宿のルイードというライヴハウスでミッチのライヴがあると言うので誘ってみたら 行きたいと言うのでチケットを2枚用意し、招待しました。
♪優しい過ぎる・・・・
あなたが・・・・
嫌い・・・♪
「・・・って歌ったあの詩は何と言う曲名なの?」
帰り道で彼女が言いました。
「さぁ?わからないや・・・。まだレコードになっていない曲みたいだし・・・」
翌年の1985年渋谷の「Egg-Man」においてミッチの初のライブ盤の公開録音があるという情報を入手。早速彼女を誘い、渋谷まで。
このときに彼女のお気に入りの曲も披露されまして、彼女が帰り道で「これって、レコードになるんでしょ?」と言うから、ソレを察した私はすかさず
「出たらテープにダビングして あげるよ」と言ったら、喜んでくれました。
彼女のお気に入りの曲は
「窓辺のソリチュード」です。
春になった・・・からでもないけども、彼女にある日 こんな手紙を書きました。
「好きです。”恋人”として 付き合ってくれない?」
私 決して天狗になったわけではありませんが、絶対彼女から”OK”という返事が来るものだと思っていました。が
「好きな人がいます」
だって(涙)
何でも配達途中でいつも一緒になる別の新聞配達の 同じ境遇(奨学金制度を受けている人)が気になって仕方がないという 正直な気持ちを ぶつけてきました。と同時にこんなことを書いてきました。
「学校を辞めて働こうと・・・思います」
すなわち 配達をしながら、肩代わりしてもらった授業料を返済するために、バイトを始めたそうです。それはすでに去年から 実行していたそうで、彼女の頑張りには 本当に感心してしまったほどでありました。
それで 彼女からの手紙の最後にこんな内容のことが書いてありました。
男と女の間に”友情”は あり得ない・・・って言われましたが、
私達・・・なれないかなぁ?
彼女との文通のきっかけは 冒頭で書きましたが、妹の読んでいた雑誌がきっかけです。
そこに書いたメッセージは
「1982・6・30」の意味がわかる人と
でした。
これは何を意味するか。数多く寄せられた文通希望のほとんどはわからなく、「失恋した日?」だとか書いてきまして、笑っちゃいましたが、この1982年6月30日は小田和正 鈴木康博などのOFF
COURASEというバンドの全国ツアーの最終日。東京九段の日本武道館において10日間連続のコンサートが実施されのでした。ツアー開始に解散が噂され、まさに6月30日の演奏を最後に解散すると言われた伝説のコンサートの日なんです。
彼女はソレを知っていて「OFF COURASEの武道館コンサート最終日ですよね?」と正解の手紙をくれたんです。ちょっと話が脱線しましたが、その解散したOFF
COURASEが再び鈴木康博を除いた4名で活動を再開し、全国ツアーを開始したのです。
プレイガイドに徹夜して並び プラチナチケットを2枚確保することに成功しました。
1986年の春のことでした。
それを彼女に連絡すると喜んでいました。そして彼女は「返済が済んだから 新聞配達を辞めます。来月から八王子というところでアパートを借りて友達(女性)と2人で暮らします。片付いたらご招待をします」という内容でした。とうとう自由を手にしたね。手紙には地図が同封されていました。
ところが・・・
ところがなんです。
春に新宿で行われたミッチのライヴでいつものように 彼女を誘って行ったのはいいんですが、そのときになぜか大阪から昔の応援隊長が上京されておられまして、ツーショットを見た隊長がこう ぬかされましたのです。
「なんやぁ〜 マシマ彼女がおったんかい?」
大阪風のジョークだと知っておりましたので、特に否定もしなければ 何もしなかったのですが、それが彼女には絶えられない(?)
ん〜・・・本人に聞いてみなければわかりませんが、それが大きな分岐点だったのでしょう。最後の手紙にもそのことが 書かれていました。
OFF COURASEのコンサートを1ヶ月後に控えた7月。
私の誕生日です。
いつもならば手紙や電話で「おめでとう」と 言ってくる彼女から連絡がありません。
今みたいに携帯電話があればこんなことはないのでしょうが、昔は手紙、電話しか手段がありません。まして彼女のアパート まだ電話を引いていなく、とにかく連絡は手紙だけだったのです。心配です・何かあったのか?病気にでもなっちゃったか?心配です。仕事が手に着きません。
「どうしたの?」と手紙を書けば良かったんだろうね。今から考えてみれば。でも 若かったから・・・
その誕生日の週末 友人と2人でツーリングと嘘をつき 八王子まで出かけました。そう 彼女に会うため。
地図を見ながら彼女のアパートに到着。どうするかと2時間くらい悩んだ挙句 ピンポンしてしまった私。
ドアが静かに開くと 彼女が出てきました。
「どうしたの?」と驚く彼女。
「ごめん・・・誕生日が過ぎても連絡ないから・・・心配で来ちゃった・・・。あ!いいよ。もう帰る」

ペンフレンドの二人の恋は つのるほどに悲しくなるのが 宿命
また青いインクが 涙でにじむ・・・
せつなく・・・
若すぎるから・・・
遠すぎるから・・・
会えないから・・・
会いたくなるのは、必然
貯金箱こわして 君に送った チケット
定期入れのフォトグラフ 笑顔は動かないけれど・・・
あの大きな玉ねぎの下で、初めて君と会える
九段下の駅を降りて 坂道を 人の流れを追い越して行けば
たそがれ時 雲は赤く 焼け落ちて
屋根の上に光る玉ねぎ
ペンフレンドの二人の恋は 言葉だけが 頼みの綱だね
何度もロビーを出てみたよ
君の姿を探して・・・
アナウンスの声にはじかれて 興奮が波のように広がるから
君がいないから・・・
僕だけ淋しくて
君の返事 読み返して 席を立つ
そんなことをただ繰り返して・・・時計だけが 何も言わず 回るのさ
君のための 席が冷たい
アンコールの拍手の中 飛び出した 僕はひとり涙を浮かべて
千鳥ケ淵 月の水面 振り向けば
澄んだ空に光る玉ねぎ
九段下の駅に向かう人の波 僕は一人涙を浮かべて
千鳥ケ淵 月の水面 振り向けば
澄んだ空に光る玉ねぎ
「大きな玉ねぎの下で」
作詞:サンプラザ中野
OFF COURASEコンサート会場の東京九段下の日本武道館。
私は一人で開場を待ちました。来るはずのない彼女を待ちながら。最後の手紙をもらって まだ2週間しかたっていません。
全部私が悪いのでしょう。でも 本当に純粋な、そして頑張りやさんの彼女が好きでした。
内容はほとんど覚えていません。
書いてあったことは「ライヴでのこと」「アパートに来たこと」
つらかったのが「もうアパートに来ないで下さい」とはっきり書かれていたこと。仕方が無い。全部私が悪いのだから・・・。
最後の手紙を読み終えると 号泣しました。21歳の時でした。しかし泣くだけ泣いたら 彼女からの手紙を全部処分する私の姿がありました。
別に彼女を恨むつもりもありません。本当に彼女の幸せを願いました。
今・・・君は何処で誰といるだろう・・・?
ごめんね。
時間と言う流れは冷たいもので、君の誕生日 ・・・それどころか顔さえ今は思い出せません。こんな私だったんです。ごめんね。
最後の手紙をもらってから 半年後、偶然(本当に偶然)君のアパートの前に来てしまったことがあったんです。
でも 表札は別の人の名前になっていました。
もう 会うこともないでしょう。でも頑張り屋さんの君のことだから きっとどこかで幸せになっているんだろうね。
最後の手紙の本当に最後の行に こう書いてくれましたね。
「”友達”として ずっと 付き合いたかった」
この言葉を励みに 今まで歩いて来られたような気がします。
ありがとう
本当にありがとう。
さよなら