suwakawa Bikeism
 バイクを趣味にして様々な思いが過ぎってきました。
 そんな思いをBikeismとして綴ってみました。
 バイクに乗る切っ掛けは実用性からでした。高校時代友人達はバイク免許を取り乗り回していましたが,元来インドア派の私には興味の対象ではありませんでした。ですから友人のバイクを見ても「ほ〜」という感じで憧れる対象ではありませんでした。
 通勤に購入したビジネス原チャリは自動車にない開放感を味わせてくれました。それから中免(普通二輪免許),大免(大型二輪免許)と取得しバイク歴を重ねることになりました。
 基本的にバイクは乗って楽しむものとして洗礼を受けた私に多大な影響を与えたのが中学時代からの友人Mと高校時代からの友人Sでした。
 Mは色々な面で私に影響を与えたくれた友人で,バイクもその一つでした。
 Sのモーターサイクルショー出展の協力はとても刺激的で楽しいことでした。当時(’80年前後)のバイク事情は個性的な外国車,画一的で実用的な国産車という感じで,やはりデザイン的には海外のバイクの方が優れていたと思います。
 友人Sはアイデアと実行力のある人で,イメージの具現と云うことを教えてくれた。共同で製作したZ400FXのカフェレーサーは自分でデザインした憧れの具現でもあった。
 その後バイクはクォーター(250)の遍歴となり,ライトウエイトスポーツの操る楽しさへと移行した。結婚後暫くブレーク期間はあったものの趣味としてバイクは健在だった。
 クォーターから大型へ移行する切っ掛けは,2000年の夏,涼みに霧ヶ峰までバイクを駆って出掛けた折り,Z1100でツーリング中のTさんと何気ない出会いでした。「長距離は大きいバイク楽だろうなぁ」という印象が高じて,当時勤務が夜勤ということで免許を取る時間とお金(夜勤手当の1カ月分を免許取得代にした)があったので教習所へ2週間通い免許を取得しました。
 これといって欲しいバイクはなかったのですが,友人MがTX650を貸してくれたので暫く乗り,偶然XJ750Eを所有する事になり,乗っている内にXJが気にいるという経緯で現在に至ります。また事故が原因でリハビリ用としてGRAND AXIS100を所有する事にも成りました。
 バイクに乗る楽しみはやはり開放感にあると思います。また人とバイクの一体感。これは車には無い感覚だと思います。バイクに乗っている時の心の動きがライディングに反映する。恐怖心が湧くとパニックに陥りやすい。そんな意味で自分の心の弱さが見させてくれる乗り物ではないかと考えています。
 乗る楽しみが中心ですので,バイクのカスタマイズは改造ではなく機能の追加が中心です。自称デコチュンで,近年スカチュウンが流行ですが,時代に逆行した趣味です。
 月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。 「おくの細道」の松尾芭蕉は彷徨の末「不易流行」という境地に至ります。深淵を彷徨いその果てに「軽さ」という境地を解きました。心が何ものにも囚われぬ思いが込められています。流行というと兎角軽佻浮薄に陥りますが,これは心の自由の欠落がもたらす稚拙さが原因。何事も凡事徹底し積み重ねの末に見えてくる自由が本物だと思います。
 また,茶道の千利休は「侘び寂び」を解きます。口の悪い友人はお前のは「我美錆」だと揶揄しますが,私の本意ではありません。でも独りよがりの美意識で錆びているという見方もある意味中っているのかも知れません。が利休の「侘び寂び」は閑散とした自由な心の孤高さと移ろい行く時の流れを解いたもの。
 利休や芭蕉の様な日本を代表する実践思想家達の共通する自然感は物事に囚われぬ心で情として現れる移ろう世界を見事に捉え慈しみへと収斂していく。まさに人生は一期一会だ。
 ルソーはその著書「エミール」という教育思想論の中で人間を育むのは高邁な啓蒙ではなく個人の趣味だと云う。趣味は自分を深める切っ掛けだ。浮薄に始まり軽さに至る旅でもある。様々な出来事を通じ意味や自分の心を紐解き歩み続ける営みこそが「旅」だと思います。
 巡り会えたバイクと共に旅をし出来事の意味を味わえたらと思います。

 ’04年6月からXJ750EとGrand Mjesty250の2台でバイクライフを楽しんでいる。使い分けは近距離用のGrand Mjesty250と中朝距離用のXJ750Eという大雑把な区分だが,同じ二輪車と云っても特色の異なるこの二台によるハーモニーはそれぞれの個性を際だたせる。
 近代的な装いを纏うGrand Mjesty250は少々非力だが穏やかで強かな走りを満喫させてくれる。スペック上の重さも乗り慣れるにつれ軽快感を持ちながらダイキャストフレーム故かその剛性感のある走りはXJ750E以上だ。CVという変速機構故に穏やかだが際限なく加速するため途もするとオーバースピード勝ちになりスピードメータチェックは怠れない。
 方やXJ750Eは24年前のモデルとはいえコンパクトなツアラーとしての快適性を満喫できる。現在では決してハイパワーとは言い難いスペックだが通常走行では過不足ないパワーとトルクを発揮してくれる。オーソドックスなダブルクレードルのフレームはGrand Mjesty250に比べ剛性感は無いがその直進安定性と質感のあるコーナリングを楽しめる。シャフトの静粛性も有り難い。加齢の見た目の草臥れは仕方ないが(ライダーも大分草臥れている)スタータークラッチの劣化は頭の痛いところだ。使い慣れた道具は欠点も仕様の内。仏陀も無くて七癖という位,欠点のないものなどあり得ない。それなりの使いこなしで大した問題にはならない。が何時までスタータークラッチが保つかは不透明。オーバーホールするか乗り換えするかは時の氏神のみ知ることだ。現状のユーティリティレベルを新たに構築するとなるとかなりの浪費を覚悟しなければならない。
 バイクに乗り始めの頃は風を切って走る,ラインを見定めブレーキングからバイクに傾きを与え,世界が傾きエンジンが呻りを上げながら駆け抜けていく,そんな風景の中にロマンティックな憧憬を感じ愛おしく思えた。信州はワインディングロードには事欠かない。バイクもカフェレーサーで走るだけが目的だった。そうした楽しみ方も時を経るに従ってバイクとしての移動の手段としての本質を取り戻しつつある。しかし,乗り物としての面白みが翳ったわけではなく,その世界を広げていく。風景の中を駆け抜けるモードから風景を味わうモードへと変遷してきた。
 目的に応じ2台を乗り分けるスタイルは従前には得られなかった面白さを味あわせてくれる。偶然の巡り合わせは感性を新たな境地へと誘い,まだ知らない世界を開拓させる。バイクが趣味と云っても道具であり豊かな想像力を養う手段だ。まだまだ旅は終わらない。

XJ750E Grand Majesty TW200E
 ’05年7月にTWを追加し,バイクもXJ750E,Grand Mjesty,TW200Eの3台になった。
 XJ750Eのツアラーとしての使い勝手は,付属していたパニアと買い足しを含め用途に応じ使い分け出来,重宝している。長距離移動ではパワーやライディングポジションに余裕があり,快適だ。唯一高速走行でのウインドプロテクションの弱さはあるものの,高速走行の頻度からすれば我慢出来るレベルだ。当初は一時しのぎのつもりだったが,結局XJに替わるバイクも見当たらず,結果としてXJとの相性の秀逸さを感じさせる。
 Grand Mjestyは事故を切っ掛けに始まるスクーターライフの発展として導入し,TMAXとの葛藤はあったもののグラマジェはグラマジェで日常のユーティリティ性の高さの利便性を発揮し,コミューターとしての真価を堪能させてくれる。通勤や近間の移動の足として最も使用頻度が高い。
 TW200EはXJやグラマジェへと発展して消失したバイクの原点回帰だ。性能,機能とも最もプアだがその単能化された造りはシンプルに楽しい。過剰化した機能追求の反動ともいえる。
 20代にも3台所有したこともあったが,γ,RZ250R,CBX250RSとオンロードクォーターばかりを集めるという,思考が実にピンポイントだった。友人のMの工房でのスペシャル化も理想的なバイクの探求という単一思考の思索としてその体験は理想の儚さを気付かせた。その後の結婚,出産,新築と生活の繁忙がバイクを遠ざけたが,中年を迎え趣味への回帰するゆとりを持て,20代とは異なる趣味の発展を企てることが出来た。
 20代での単一思考的バイク単体としての理想の追求ではなく,シチュエーションに応じた機能の探求としてXJとグラマジェ,長距離,短距離での使い勝手の追求だ。結果として20代に感じたライトウエイトスポーツと乖離し肥大化を招いた。そうした意味で私にとってTWはバイクの原点への回帰となった。性能的には不足気味のスペックだがTWは最も私にスポーツを感じさせる。三車三様の個性は互いの長所短所を顕在化し補完する。
 バイクは乗って楽しむもの。その手応えは差異があるからこそ感性に訴える。単一思考は感性を硬直させ本質を見失わせる。それは”飽き”という感受性の喪失に繋がる。単なる移動する手段としての道具でしかないバイクを趣味として豊かさを確立し続けるための方便は今後どの様な心像風景を提供するかは未知数だ。閑雲野鶴,花鳥諷詠していきたい。


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