台湾総督府
日清戦争によって眠れる獅子・清国を打ち破った日本は、一八九五年(明治二十八年)
四月十七日、下関講和条約によって清国より台湾の割譲を受ける。
下関講和条約第二条は、「清国政府は日本に遼東半島、台湾、澎湖列島を割譲する」と
定め、これをもって台湾の日本領有が決定したのである。
日本政府は、すぐさま統治行政機関として台湾総督府を設置し、海軍大将・樺山資紀を
初代台湾総督に任命した。 そして旅順にあった北白川宮能久親王率いる近衛師団が十隻
の輸送船に分乗して接収のため台湾に着いた。
台湾上陸
一方、台湾では日本への帰属が決定するや、治安は最悪の状態となり、台湾巡撫(清国
の台湾行政長官)の職にあった唐景ッ(とうけいしょう)の一派が「台湾民主国」の独立
を宣言した。 が、清国政府は日本と再び戦争になることを恐れ、唐景ッら台湾省の役人
や武官に帰還を命じ、これを待ち望んでいた海軍部隊などはさっさと大陸に引き上げてい
くのであった。
したがって、台湾民主国には海軍兵力を欠いた陸軍部隊三万五千名を中心とする現地義
勇兵およそ十万人程度の戦力しか残されていなかったのである。 島内の不穏な動きを察
知した近衛師団は、台湾北部の基隆(キールン)港の上陸を避けて台湾北東部の澳底に上
陸し、陸路を基隆に向けて進撃した。
ここで日本軍と台湾民主国軍との間で攻防戦が展開されたが、戦場に駆けつけた黄義徳
の率いる部隊などは戦わずして引き上げてしまうありさまであった。 かくして日本軍は
基隆港を占領し、樺山資紀初代台湾総督一行の基隆上陸を迎えた。
閲兵式
そんな戦闘の最中、日本軍の元へ一人の使者がやってくる。 辜顕栄(こけんえい)とい
う商人だった。 そもそも、台湾民主国を旗揚げした唐景ッらは、台湾の国土や民衆を守
る気などなく、ただ大陸からやってきた中国人達が台湾で築き上げた財を守ろうとしただ
けのことであった。
それを証拠に、基隆陥落の翌日には唐景ッら台湾民主国の高官達は、ドイツ商船に乗り
込んでさっさと大陸に引き上げている。 残された兵士達は、略奪、殺人などあらん限り
の悪事をはたらき、台北は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
そこで、台北城内の士紳らが協議し、日本軍の台北への早期入城を願い出て治安回復を
はかろうと動き出した。 日本軍の台北の入城は、清国兵の悪行を止めさせようとした台
湾人の手引きによるものだったのである。
日本軍は清国兵を掃討し、降伏した兵士達を船で大陸へ送還した後、台北城内で閲兵式
を行った。 一八九五年六月十七日、この日をもって日本の台湾統治が始まった。
植民地とは西洋の概念?
その頃、日本国内では、台湾を「植民地」とみなすかどうか、また台湾経営をどのよう
に進めていくべきかという議論が活発に行われていた。
明治維新後の日本にとってはじめての「新領土」台湾の統治を検討するため、内閣に「
台湾事務局」を置いて議論が行われた。 時の総理大臣・伊藤博文自らが事務局長を務め、
そこには後の首相・原敬なども事務局員として名を連ねていた。 この原敬などは台湾を
植民地として遇するべきでないと主張していたという。 日本で活躍する台湾人評論化・
黄文雄の著書『韓国人の「反日」台湾人の「親日」』(光文社)によれば、当時の政府の
統一見解は、「内地延長主義」であったと指摘する。
この考えは、一九一〇年(明治四十三年)の日韓併合においても継承され、朝鮮を「植
民地」として見るのではなく、「内地の延長」としてみることが主流であったとされる。
補給基地としての台湾
もとより「植民地」という言葉は、戦後になって出来たものだと私は理解している。私
が公学校(小学校)時代に習ったことは、台湾は樺太、朝鮮と同様に日本の領土であり、
台湾が植民地であるなどという話は耳にした記憶がない。(台湾人の著者)少なくとも、
新しい領土を獲得することになった当時の日本政府が、欧米の植民地経営の特徴であった
一方的な搾取を前提としていなかったことだけは事実である。
そもそも日本の台湾領有の背景には、石炭と水の供給地を台湾に求めた海洋戦略がっあ
た。当時の軍艦は石炭を燃料としており、日本と南洋を結ぶ中間に軍艦の補給基地を必要
としたのである。 これは、初代総督となった海軍大将・樺山資紀が陸軍中佐時代に台湾
を視察した際の結論でもあった。
陸軍から海軍へ転籍するという一風かわった経歴を持つ樺山資紀は、この頃の欧米諸国
の植民地における行状もよく理解しており、列強国の優等生となるためにも新しい領土と
なる台湾を搾取するのではなく、統治すべきだと考えていたのであろう。 さらに日本が
台湾を領有した時、住民は二年間の「国籍選択猶予期間」が与えられ、清国を選ぶ者は自
由に台湾を離れることも認められていた。
このように日本の台湾統治は領有当初から住民に対してゆっくり進められた。 台湾総
督として、樺山資紀の後を継いだのは、後の首相・桂太郎であり、そして陸軍大将・乃木
希典と続く。
この第三台湾総督・乃木希典などは、日本の台湾領有を「乞食が馬をもらったようなも
のだ」と語っていた。 これは、馬も養えないような日本がどうして台湾を統治できよう
か、という意味で、当時の日本の国力で台湾を統治することは、決して容易なことではな
かったことがうかがえる。
抗日ゲリラ
そして、いざ統治に及んでは、いかなる施政も受け入れようとはしなかった土匪(抗日
ゲリラ)や蕃地(当時、原住民の暮らす村を「蕃社」、原住民を「蕃人」と呼んだ)の対
策に明け暮れた。
懐柔策を練り、堅固な警備体制をもって対処するが、散発的とはいえ抵抗運動の平定は
たやすいことではなかった。 こうした抗日ゲリラ対策は、乃木総督の後任となった第四
代総督・児玉源太郎の時代に引き継がれてゆく。
台湾総督にとって、抗日ゲリラのみならず、山地に暮らす原住民に対する理蕃政策(原
住民を、懐柔策を含むあらゆる方法で帰順させ、蕃地の統治を図ろうとした)も忍耐を必
要とする一大事業であった。 第十三代総督・石塚英蔵の時代には、児童を含む百三十名
が蜂起した原住民に惨殺され、その討伐のために三百名を超える原住民が戦死するという
「霧社事件」(昭和五年十月二十四日)も起きている。
乃木総督の時代、こうした抵抗運動の平定に努める一方で、統治する側の日本人官吏達
にも綱紀粛正が厳しく求められた。 この乃木総督の時代には、その実直かつ清廉潔白な
人柄が統治の姿勢にも表れている。後世の評価では、乃木総督の行政は厳格すぎたという
批判もある。 しかし、統治する側が襟を正すべきだとした姿勢は統治されていた台湾人
にとって歓迎すべきであったことはいうまでもない。
明治維新の立役者達
その後、児玉源太郎、明石元次郎など、いずれもが明治維新を成し遂げた新生日本の門
出に立ち、日本を世界に冠たる国家へ創りあげていった偉人達が台湾総督としてやってき
た。 日本政府はこうした一流の人材を次々と台湾へ送り込み、終戦までの五十年間に延
べ十九名の台湾総督がその任に就いた。 そして彼らは台湾を近代化するため懸命に取り
組んだのである。
台北の鉄筋コンクリート製下水道施設などは、東京市(当時)よりも早く整備され、劣
悪な衛生状態を改善することによって、伝染病が一掃された。 そして、あらゆる身分の
人が教育を受けられるよう、貧しい家庭には金を与えてまで就学が奨励された事実を忘れ
てはならない。 戦後、台湾経済がこれほどまでに成長した秘密は、日本統治時代に整備
された産業基盤と教育にあるといっても決して過言ではない。 同様に台湾の近代史はこ
うした日本統治時代を抜きに語ることはできないのである。
差別
もっとも、多少なりとも差別はあった。 台湾人と内地人の給与格差などはその一例で
あり、内地人(日本人)の給与は。「外地手当」が加算されるため標準支給額の六割増し
となっていた。
例えば、当時の学校教員の初任給が五十円だった頃、内地人には八十円が支払われた計
算になる。 ところが、この外地手当は転勤等で台湾にやってきた内地人だけに支給され
ただけではなく、台湾で生まれた内地人までもが対象とされていた。
同じ日本という国籍で、同じ台湾生まれということであれば、差別感が拭えないだろう。
要するに「外地手当」という名目の「給与差別」が存在していたのであった。 しかし、
日本はそれ以上のことを台湾のために行った。 我々台湾人の多くは、日本統治時代をそ
うした客観的な尺度をもって評価しているのである。
台湾近代化の父(1)
一八九八年(明治三一年)三月、陸軍次官・児玉源太郎が第四大台湾総督として着任。
総督の右腕となる民政長官として赴任してきたのが医学博士でもある後藤新平だった。後
の南満州鉄道初代総裁、逓信大臣、内務大臣兼鉄道院総裁、外務大臣、東京市長など戦前
の日本の要職を歴任した偉人である。
その後藤新平が台湾総督府民政長官に着任するや、多忙の児玉総督を助け、大規模な土
地・人口調査を実施した上で、道路・鉄道・水道・港湾などのインフラ整備をはじめ、台
湾の衛生環境と医療の大改善など数々の大事業をやってのけたのだった。
台湾の上下水道はこの時代に整備され、その結果、世界有数の伝染病根源地だった台湾
からマラリア、ペストをはじめ、あらゆる伝染病が消えていった。
それまで台湾が統治の難しい土地であり続けた理由の一つにこの伝染病の存在が挙げら
ていたが、医師というバックグランドをもった後藤新平の登台で、長年の大問題に終止符
がうたれた。 このことは、その後の台湾の発展に大きく寄与することになる。
台湾近代化の父(2)
内地から百名を超える医師を招き入れ、全島各地に配置して近代的衛生教育を徹底させ
る公医制度をはじめ、病院・予防消毒事業団の設立など次々と衛生改善策を講じていった。
後藤新平は、あくまで「生物学の原理」に従って台湾統治を行うべきであると主張して
おり、「ヒラメの目を鯛の目に付け替えることはできない」という有名な喩えが残されて
いる。 こうしたことは、全島の旧習調査からアヘン吸飲習慣の全容を把握した上で、ア
ヘン患者を徐々に減らしていった手法にもあらわれている。
アヘンを専売制にし、中毒・常習者に限って販売するが、新たに吸飲する者は厳罰に処
せられた。 これはアヘン患者を自然に減少させるねらいがあった。 こうして当初全島
人口の六パーセントにのぼった中毒・常習者は、一九四一年(明治一六年)までに、0.
1パーセントまで激減していったのだ。 悪習といえども他民族の習慣を尊重しながら、
無理なく時間をかけて撤廃していったその手腕は実に見事であった。
台湾近代化の父(3)
むろん、このような大規模な事業を行うためには、莫大な資金が必要であったことはい
うまでもない。 一八九八年(明治三一年)の日本の国家予算が約二億二千万円だったと
ころへ、台湾総督府から台湾開拓・整備予算として全国家予算の1/4以上にあたる六千
万円というとてつもない額が要求されている。
日本のこうした統治政策は、世界にその類例を見ない。 同じ頃、アジアに植民地を保
有していたイギリスやオランダは、植民地を自国の産業発展のための一次産品(工業原料
や鉱物資源等)の供給地として位置付け、プランテーション経営や鉱物の採掘のために現
地労働力を奴隷のごとく酷使した。
そんな彼らにとって、当地の近代化や地元民への医療対策など考えも及ばなかったであ
ろう。 それを証拠に、イギリスなどは、アヘンを持ち込んでまで植民地の富を根こそぎ
搾取していたことはあまりにも有名である。
内地の国家予算から膨大な金をつぎ込み、台湾を本国と同等水準に引き上げようとした
日本と、植民地から搾取のみを行っていた当時の欧米諸国の違いがよくわかる。
台湾近代化の父(4)
一八九九年(明治三十二年)、児玉・後藤の熱意が最終的には四千万円の予算を獲得し
た。そして、この資金を元に台湾の近代化整備が急ピッチで進められていった。 幅の広
い道路や南北縦貫鉄道(基隆-台北-高雄)の着工、高雄・基隆の築港など産業基盤が次々
と整備され、こうした産業基盤の上に、暖かい気候を利用して、こんどは製糖業をはじめ
とする産業が育っていったのである。
日本の五千円札の肖像でお馴染みの新渡戸稲造は、後藤新平の推薦で総督府技師として
登台し、サトウキビの品種改良を行うなどして、台湾に製糖業を殖産すべく全力を傾けた。
その結果、台湾の砂糖生産量は、一九〇〇年(明治三十三年)の三万トンから五年後には
二倍の六万トンに、戦時中には百六十万トンを記録するまでに成長している。
そして日本統治時代に殖産された製糖産業は、戦後も一九六〇年代まで台湾経済を支え
続けたことも付記しておく必要があるだろう。 また天然樟脳などは世界の八割を台湾が
占めていたことも日本統治時代の遺産である。
台湾近代化の父(5)
こうして領台わずか十年のうちに、台湾はもはや内地からの経済援助を必要としない自
給地となったのである。 一九九九年(平成十一年)五月二十二日、台南市社会教育会館
で後藤新平、新渡戸稲造の業績を称える国際シンポジュウム(事績国際検討会)が開催さ
れた。
戦後の台湾史上、日本人を巡るシンポジウムは初めての試みであり、それゆえに内外か
ら注目を集めた。 日本からは、後藤新平の孫・後藤健蔵氏および新渡戸稲造の孫・加藤
武子氏を含む四十五名が参会した。
シンポジウムの冒頭、昭和大学の黄昭堂名誉教授が日本の台湾統治の時代背景について、
「帝国主義は当時の世界の潮流であり、日本だけが謝る必要などない」と機先を制した。
ところが、それでも日本側代表は、「日本による戦前の台湾統治で、日本は善いこともし
たが、悪いこともしたであろう。そのことについて謝罪したい。我々はお詫びするしかあ
りません」と口にしたのである。
このシンポジウムで総合司会を務めることになった私は、「ひとつだけ言っておきます
が、日本が台湾へ謝罪する必要はありません。それよりも隣の大きな国と戦っている台湾
を応援してください」と日本側の謝罪発言をたしなめた。
シンポジウムでは、日本側・台湾側からそれぞれ二名が講演を行った。先ず、佐藤全弘・
関西外国語大学教授及び内川永一朗・新渡戸基金事務局長が演壇に立ち、続いて台湾側の
李永熾・台湾大学教授、および同大学の呉蜜察教授も後藤新平、新渡戸稲造の台湾統治を
評価し、熱弁を振るった。
台湾近代化の父(6)
そして、このシンポジウム開催の原動力となった実業家・許文龍氏のスピーチに注目が
集まった。 許氏の綿密な歴史検証に基づく客観的な歴史観に会場は水を打ったように静
まり返り、その見事な歴史分析に聞き入った。
「台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。当時、搾取に
専念したオランダやイギリスの植民地と違い、日本のそれは良心的な植民地政策だったの
です。」許文龍氏は続けた。 「戦前の日本の台湾統治に謝罪する必要はありません。戦
後の日本政府は、深い絆を持ちながら世界で一番の親日国家である台湾を見捨てました。
謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です」と現代日本の歪な歴史観を正したのであ
る。さらに許氏は、戦前の日本人に感謝の意を表すとともに、日本人が築いた功績によっ
て今日の台湾があることを忘れないでいただきたいと、会場に詰めかけた台湾人に呼びか
けた。そして、このシンポジウムを催したのは日本人を喜ばせるためではなく、いまや自
信を失いかけた日本が、過去台湾のためにどんな業績を残してくれたかということを日本
人にわかってもらいたいためであると結んだ。
許文龍氏は、後藤新平の偉業を無視したこれまでの中華民国政府の反日教育に眉をひそ
めてきた。 そこで後世の台湾人に歴史の真実を伝えようと、私費を投じて後藤新平の胸
像を造ったのである。 四つ造られた胸像の一つは、観光客でにぎわう台南随一の観光地
ゼーランジャ城(安平古堡)に見ることができる。
台湾近代化の父(7)
戦後の偏狭的な価値観に蝕まれた日本人にとって衝撃的ともいえる許文龍氏の結びを見
届けた私は、「日本人よ胸を張りなさい!」と参集した日本人に呼びかけた。 参集した
日本人の多くが瞼を拭う姿に、私は台日関係の明るい未来を予見した。
そして後藤新平の孫・後藤健蔵氏が登壇し、スピーチを行った。 後藤氏は、「金を残
す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり」という祖父・後藤新平の
座右の銘を披露し、会場を頷かせた。
後藤新平の台湾統治成功の陰には、新渡戸稲造をはじめ各界の優秀な人材の尽力があっ
たことも見逃してはならない。 また、軍部の長でありながら軍部を抑え、後藤が思いき
った行政を施行できるように取り計らった親分・児玉源太郎の度量なしには成し得なかっ
た偉業であることも付記しておく必要があるだろう。
台湾の近代化に尽力した後藤新平は、今でも「台湾の近代化の父」と呼ばれ、我々台湾
人から惜しみない喝采と敬意を持って評価されている。
嘉南大圳の父(1)
いまでは台湾最大の穀倉地帯として潤う台湾南部の嘉南(かなん)平野一帯も、日本の
台湾統治が始まった頃は、一面不毛の大地だった。 長い雨季には大地が水に浸り、乾季
には水不足に悩まされ、穀物栽培にはまったく不向きな土地だった。
では、どうしてこの不向きな土地がそのような変貌を遂げたのだろうか。 日本人技師・
八田興一の活躍である。 アメリカをはじめ、世界の水利事業に明るい八田は、洪水と旱
魃を繰り返すこの嘉南平野を穀倉地帯に変えるには、大規模な灌漑施設を作る必要がある
と提唱し、嘉南平野開発計画書をまとめ上げた。
その計画は、烏山頭(うざんとう)に大規模なダムを造り、平野には長大な水路を張り
巡らせるという壮大なプロジェクトであった。一九二〇年(大正九年)、治水工事は着工
された。 八田興一は家族を烏山頭に呼び寄せ、すべてをダム建設に捧げるつもりでこの
一大事業に打ち込んだ。
そして十年後、ついに悲願は成就したのである。 完成した烏山頭ダムは、当時東洋一
の規模を誇り、大地を網目のように走る水路は実に一万六千キロメートル(万里の長城の
約六倍)にもおよんだ。 これを総称して「嘉南大圳」と呼んだ。 それは八田興一の執
念でもあった。
嘉南大圳は、一面の荒れ野原を緑の大地と変えてゆき、台湾最大の穀倉地帯を誕生させ
たのである。 この嘉南大圳の完成を喜んだ地元の人々は、感謝の気持ちを込めて八田興
一の銅像を製作し、これを烏山頭ダムのほとりに建立した。
その後、この台湾農業改革の偉大な功労者・八田興一を悲劇が襲う。
嘉南大圳の父(2)
烏山頭ダムが完成して十二年後の一九四二年(昭和十七年)五月八日、フィリピンの綿
作灌漑調査を命じられた八田は、輸送船で現地に向かう途上、五島列島沖でアメリカ潜水
艦の攻撃に遭い、殉職してしまうのだ。
その後戦争が終わり、日本人が本国へ引き揚げをはじめていた頃の一九四五年(昭和二
十年)九月一日未明、八田夫人・外代樹(とよき)は、遺書を残して、夫が精魂込めて造
りあげた烏山頭ダムの放水路に身を投じたのである。
嘉南大圳の人々は、この地のために生涯を捧げてくれた夫妻の死を悲しみ、戦争が終わ
った翌年の十二月十五日、地元の人々によって八田興一と外代樹夫人の墓が建立された。
現在も、その墓と物思いに耽る八田興一の銅像がこの烏山頭ダムのほとりに建つ。
私は、日本からの訪問者をこの地に案内するとき、しみじみ思うことがある。それは、
もし日本の台湾統治がなかったら、こんな立派なダムもなく、おそらく台湾は中国の海南
島のように貧しい島になっていたであろうということだ。
これは単なる私個人の推量ではなく、その後の中国人による台湾支配を経験した多くの
台湾人が確信していることでもある。 戦後日本では、かつての植民地統治を無条件に批
判する言論が幅を利かせていると聞く。 が、日本による台湾統治によって、いかに多く
の台湾人が恩恵を受けたかという側面を考慮しないことはあまりにもお粗末であり、聞く
に耐えない。 それは単なる特定イデオロギーに染まったこじつけでしかなく、少なくと
も日本統治を受けた台湾人には理解し難いことでもあることも付記しておく必要があるだ
ろう。
事実、嘉南大圳によって潤った地元の人々にとって、八田興一という日本人技師は紛れ
もない恩人であり、彼を悪くいう理由はどこにも見当たらない。
嘉南大圳の父(3)
こんなエピソードも残されている。 戦争末期、不足する金属の供出が求められ、八田
興一の銅像もその難を逃れることはできなかった。 しばらくして銅像は烏山頭ダムのほ
とりから消え、誰もが時局の運命とあきらめ、その存在すら忘れさられようとしていた。
しかし、一九八一年(昭和五十六年)、溶かされて兵器になったはずの八田興一の銅像
が突如現れたのである。 つまり、八田興一の銅像が戦争末期の金属供出によって消えて
なくなるのを忍びなく思った地元の人々が、烏山頭に近い番子田駅の倉庫に隠していたの
だった。 そして戦後、嘉南農田水利会の職員が銅像を発見したが、世は一転して中華民
国支配下だった。 国民党政府が、日本時代の銅像や痕跡をことごとく抹殺することに躍
起になっていた時代にあっては、とても日本人の銅像など持ち出すわけにはいかない。そ
こで地元の人々の手によって長らく隠されていたものが、蒋経国の時代になってようやく
引っ張り出されたのである。
八田興一がいかに地元の人々に敬愛されているかがおわかりいただけるだろう。後藤新
平が「台湾近代化の父」と呼ばれるのに対し、八田興一は「嘉南大圳の父」と呼ばれ、毎
年五月八日、八田興一の命日には嘉南農田水利会の人々によって、いまでも墓前で慰霊祭
がとり行われている。
台湾の土になった明石総督(1)
一九一八年(大正七年)、発展を遂げる台湾に陸軍大将・明石元次郎が第七代台湾総督と
してやってきた。 明石元次郎とは、日露戦争時に欧州各地でレーニンら革命運動家と接
触し、豊富な工作資金を巧みに利用しながらロシア革命を煽動することで、ロシアを後方
から攪乱させた日露戦争勝利の陰の立役者である。
あの時代、現代のCIA顔負けの情報戦を展開し、日露戦争を勝利に導いた明石元次郎は、
ドイツ皇帝ヴィルヘルム皇帝をして、「明石一人で、大山率いる二十万の日本軍に匹敵す
る戦果をあげた」といわしめるほどの傑物だった。
そんな日露戦争の英雄が台湾総督として赴任してきたのである。 明石総督の代表的な事
業として、日月潭(にちげつたん)の水力発電事業があげられる。
このダム建設は、最大十万キロワットの電力を台北から高雄まで送電するという大型プロ
ジェクトであった。 さらに基隆(キールン)から高雄までの縦貫道路の着工や鉄道等交
通機関の充実を図るなど、いわば児玉・後藤コンビによるインフラ整備の総仕上げともい
える大事業に取り組んだ。
私の岳父が学生の頃、国語学校の受験のために台南から五日間もかけて台北にやってきて
いたが、こうした南北縦貫道路や鉄道が完成するとたった一日で台北まで行けるようにな
ったと聞いている。 日本統治時代に行われたインフラ整備は、台湾の住民にとって歓迎
すべき事業であった。
また、こうした産業基盤整備のほかに明石総督は、司法制度改革や教育改革にも取り組ん
だことを忘れてはならない。
とりわけ、一九一九年(大正八年)一月に台湾の人的資源開発を促進する目的で発令され
た「台湾教育令」などは、その後の台湾の発展に大きく寄与することになる重要な事業で
あったといえよう。
台湾の土になった明石総督(2)
この法令によって、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専
門学校をはじめ多くの学校が開校されていった。 そして明石総督の教育改革は、第八代
総督・田健二郎の時代に、「新教育令」(一九二一年・大正十年二月発布)となって実を
結ぶ。 この新法令で台湾人と日本人が机を並べることになったのである。
台湾における教育の普及は、その後の台湾の知的基盤となり、現代の磐石な経済力を作り
上げていったことは論を俟たない。
この点からも、日本の台湾統治は、欧米列強諸国の植民地経営とは根本的に違っていたと
いえる。
その一例を挙げてみると、一九四五年(昭和二十年)時点では、五十年間日本領であった
台湾の就学率は、九二パーセントに達していた。
が、四〇〇年間もオランダの植民地であったインドネシアのそれはわずか三パーセントで
しかなかった。
欧米列強諸国の植民地は、愚民化政策の下に一方的な搾取を行うばかりで、現地民の民度
向上、教育など考えも及ばぬところであった。
しかし、日本の台湾統治は、「同化政策」の下に、外地(台湾)も内地と同じように教育
系統を整備しその民度を向上させるべく諸制度改革などあらゆる努力が払われたのである。
台湾の土になった明石総督(3)
明石総督は赴任に際し、台湾に暮らす日本人より台湾島民を第一義にして統治を行わなけ
れば、平等政策は行われないと語っていたという。 このような日本式統治は、世界史上
他に類例をみない。
明石元次郎が台湾人の間でいまでも語り継がれている理由は、こうした総督時代の業績、
あるいはその成果ばかりではない。 明石総督は十九人の台湾総督の中で、唯一台湾に埋
葬された総督なのである。
一九一九年(大正八年)七月、原因不明の発熱で倒れるも、一時容態は回復の兆しをみせ
たため、この年の十月に内地で行われる陸軍大演習陪観(視察)のために船で帰国する。
しかしその途上、船中で再び容態が悪化。 すぐさま郷里の福岡で療養するが、その甲斐
なく同月二十六日帰らぬ人となってしまった。
明石元次郎は生前より、総務長官(旧民政長官)・下村宏に、「もし自分の身の上に万一
のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」と遺していたことから、明石総督の遺骸は、そ
の遺言に従ってわざわざ郷里の福岡から台北に運ばれ、日本人墓地に埋葬されることにな
った。
すると、明石総督を尊敬してやまない台湾人からたちまち多額の寄付金が寄せられ、「軍
人中、皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはいない」といわれるほどの立派な
墓が造られたのであった。
台湾の土になった明石総督(4)
その後、大東亜戦争後の国共内戦に敗れて台湾にやってきた国民党の中国兵及び難民が、
こともあろうに、この日本人墓地にバラックを建てて住みはじめたのである。墓石を住居
の土台や敷居、あるいはベンチ代わりにしたりと、我々台湾人には到底考えられないこと
を彼らは平気な顔でやってのけた。
もちろん明石総督の墓も、その難を逃れることはできなかった。墓に付属していた鳥居な
どはバラック家屋の柱として利用され、さらに墓の近くには公衆便所までもが造られた。
しかしその後、一九九四年になって、民進党の陳水扁(ちんすいへん)台北市長(現総統)
は、立ち退き料を払ってバラックに住んでいた人達を退去させ、台北市政府の手で明石総
督の墓が掘りおこされたのである。このとき、明石総督の偉業を称える本省人と、旧敵国
の軍人を弔うなどもってのほかとこれに反対する外省人=中国人の間で、いさかいも発生
した。
戦後、国家まるかかえでやってきた中国人にとって、明石元次郎は旧敵国の軍人であって
も、我々台湾人にとっては尊敬してやまない恩人であり、当時は同じ国民だったのである。
台湾の土になった明石総督(5)
戦後間もない一九五四年(昭和二十九年)、日本の衆議院議員だった石井光次郎が来台し、
明石総督の墓を訪れたところ、そのあまりにも惨状に驚き、国民党政府に明石総督の遺骨
を日本に連れ帰りたいと申し入れた。石井議員が帰国後、明石元次郎の孫・明石元紹(も
とつぐ)氏にこの話をしたところ(ご令息はすでに他界していた)、元紹氏はかつての総
務長官であった下村宏氏に相談した。元紹氏は当時まだ大学生であったから無理もない。
下村氏の回答は、「多くの日本の兵隊さんが東南アジア各地で亡くなって、その遺骨がい
まだ回収されないまま、あなたのおじいさんだけを連れて帰るのでは、おじいさまは喜ば
れませんよ」という厳しいものであった。
明石総督から「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」と命ぜ
られていた下村氏は、誰より明石元次郎の気持ちを理解していたのだった。
そして、一九九七年(平成九年)七月十七日、およそ八十年ぶりに明石総督の墓が掘り起
こされることが決定した。
台湾の土になった明石総督(6)
私は、はじめて祖父の眠る台湾を訪れた元紹氏を台北空港に出迎え、その翌々日に明石総
督が眠る旧日本人墓地へと向かった。
明石元紹氏との出会いはその一ヶ月前にさかのぼる。
日本に新しく赴任した荘銘耀(そうめいよう)駐日代表の着任を祝う「新日台交流の夕べ」
と銘打ったパーティが催され、私は発起人の一人として東京へ飛んだ。
そしてこのパーティ会場で、明石元次郎総督の孫・元紹氏を紹介され、交友を深めること
になったのである。
我々が到着した旧日本人墓地では、それまでのみすぼらしいバラックがすべて撤去され、
工作機械が発掘の準備をはじめていた。
しばらくして、地中に埋葬されていた明石総督の収まる棺がクレーンで持ち上げられ、地
上におろされると、元紹氏が泥まみれの棺にそっと花をたむけた。
彼は心の中で祖父にどんな言葉を添えたのだろうか。参集した人々はそんな元紹氏の祖父
を慕う姿に胸を打たれた。
その後、元紹氏の希望で棺は開けられることなく、しばらくの間、台北市立第一殯儀館の
特別室に安置されることになった。