「ニッポンがくだらなく」なってきたのは、1300年にわたって日本の中から”百済”を隠したからだ。しかも「クダラなくなってきた」だけではない。最近のニッポンはますます、何が何やらワケがわからからなくなってきた。がこれも、2000年にわたって日本の中から「倭(わ)・韓(カラ)」を消し去ってきたからだ。と並べて書くと「そんな語呂合わせで、現代批評ができるか?」という人がいるかもしれない。ところがドッコイ、この二つの文章で日本の、いや日本語の成立過程がわかってくるのだ。


前号に続いて今回のテーマは「分らないなら倭・韓を当たれ」だ。これは単なるレトリックではない。よ〜く吟味すれば、そこから日本語発生の背景を考察することができるという一説である。そればかりではない。前回を読んできた人なら分るだろうが日本は、自らの深層に深〜く根ざしてきた百済と倭・韓の遺伝因子をことごとく消去してきた。だからこそ、今日的状況があるといっても過言ではないのだ。ゆえにこの文章はグローバリゼーションを目指す日本のあらゆる階層の人にとって、肝に銘すべき格言といってもいい。いや21世紀の扉を開けるキーワードであるのだ。

東京の中心で見つけた

百済系、倭奴系、韓系の三社から見えてくるものは?

幕府金座の守護神とあるが、名前
からみて徳川幕府以前に鎮座して
いたものだろう。太田神社が「だい
だ」で、その意味するものは前号
を参照してもらえれば納得されるは
ず。それにしても見るからに朽ちは
てた社殿。もはや氏子もいなくなっ
たのか、メタリックな高層ビルの輝
きとの落差が強烈だったな〜
皇居からまっすぐ北上すると神保町
に出る。太田神社のあるキャンパス
街からさらに外堀通りにでると湯島
聖堂があり、並んで神田明神がある
。その明神さんの境内にある数ある
末社のひとつがこれ。説明の立て札
に「元は皇宮の守の中にあった」とあ
るから太田道灌のころは、いまの皇
居のどこかにあったことになる。
そう、江戸城は徳川幕府が入る
前は「太田道灌」が主だった。
左の「太田姫神社」の存在が大
田道灌と関係があるのは論を待
たない。神田という地名は推理
小説で新境地を開いた松本清張
氏がどこかで「神田は韓田でしょ
う」というように「韓
(から)」の地で
もあったのだ。

皇居二重橋 いまもこの中に江戸(倭奴)神社の名残がある?

さて本題の「から・韓」についてだ。『韓』は訓読みで「から」と読むのだが、これが
意外と知られてない。日本語の中で「から」という単語の用法がどれほどあるか
知らないが、おそらく「た
から」も「からくり」も「韓」からきているといっていい。
その「韓」は当然、韓国の韓だがこの国では、この字はズバリ、「神」のこと。
「韓国」を
ハンナラというがこれは「神の国」という意味なのである。「え? 神の国」
、どこかで流行った言葉だね(^.^)。そう、お隣はとっくに、「神の国」では先輩だった
んだね。さら「韓」は皇室とも関係が深いのだ。それを次の欄で見ることにする。

写真はマイクロソフト御用達の百科事典・「ブックシェルフ」
その中で「
から」を検索すると次の記事が出てくる。

から【唐・韓・伽羅】(伽羅)三〜六世紀ごろ、朝鮮半島南部、洛東江の流域一帯にあった小国の総称。からかみ【韓神】(朝鮮から渡来した神の意昔、守護神として宮内省の中にまつられていた神。平安時代には、韓神の祭が盛大に行なわれた。
一家に一冊はあるはずの「広辞苑」。いったいどれほどの人が「から」の記事を読んでいるだろうか。この簡潔な説明で、日本人のルーツが古代朝鮮にあることを知ることができるはずだ。冒頭のレトリックではないが、「韓(から)からきた同胞(はらから)よ。同じ血の輩(やから)よ」とくれば日本語のルーツもどこにあるか分ろうというものだ。
『広辞苑』(昭和五十八年第三版)から・の・かみ  (韓神)〔朝鮮から渡来した神の意か〕大己貴、少彦名二神の称。宮内省に祀られた。→園神。…… ・の・まつり〔韓神祭〕宮内省内に祀ってあった韓神の祭。古くは陰暦二月と十一月に行なわれたが、中世以後衰え廃絶した。園神祭も同日行なわれた。からかみのまつり。

江戸城(皇居)を取り巻いていた大名屋敷に注目!

ひと目でわかる、というのが当サイトのコンセプト。上の絵図面をみると圧倒的に「松」氏が多い。もっともこれも一部に過ぎないし年代によっても違うだろうが、それにしても明確に「松平」が多いことが分る。さて「松平」の名前の中にありますね…。「」というのが。これは間違いなく「百済」姓だね。しかも「松」は百済のシンボルでもあるから、これはもう、はっきり「百済王氏」の出身と断言できるね。

ついでにこれも読んでおくと、ハッキリするよ
↑ 写真は埼玉県新座市の市役所。
新座市と志木市あたりは江戸時代
から明治になっても、
新羅郡と呼ん
でたんだね。というからには「新羅」
色が濃いのかというとそうでもない
んだね。それよりも新座市といえば
有名なのが「
林寺」。ここは「松平
家ゆかりの菩提寺でもあるんだね。
となるとむしろ
百済郡と言ってもおか
しくない?

↑ 平林寺」の境内は濃い樹
林に覆われていて、格好の庭園
として市民に利用されているよう
だ。その拾い境内の奥まった墓
所に「松
家」の墓所がある。
当山の創建は古くはないが、創
建にかかわった人の中に「
太田
某氏」がいた、とあったが入り口
で渡されたシオリを無くしたので
もし行く人がいたら確認してね。

では、日本の前は「倭」だったというのはどうか…

1784年、九州・志賀島で発見された金印は「漢委奴国王」であって「倭」ではない。人ベンがない「委」である。「委奴」を古代中国音で読むとWAYNOOウエイヌーに近い発音になる。しかも何度もいうが言語学というのは人間個人の聴覚と声帯がまず深く関与している。つまり聴いた音のとおりしか発音できないのである。だから微妙な発音の中国語でWAYNOOと聞き取った人によって「イヌ」になったり、「ウエノ」になったりするのは当然だ。また呉音、漢音の違いで「」をヌ・ノ・ド・トなどと読まれてきたのだ。その結果が1ページの用例表だ。

金印が日本の古名、「倭」ではなく、「委」を使っていたことを重大に受け止める学者がいる。「人偏が付いてないのは人の世にも満たない」と軽視していた証拠だというのである。たしかに人偏があるとないとでは読み方も違う。「」はウワ、ワ、ウエと読むが「」だとイ、イイとは読んでもウワとは読めない。「倭」の当て字で「和」がつく地名が全国にあるが「委(イ)」を無視してはとんでもないことになる。つまり漢字ができる前の地名と漢字を当て、それをどう読んだかなど、幅広い見地で見なければならないのだ。「ウソ発」は窮屈な学界と違ってこうした自由な発想を大事にしていきたいのである。そうした視点で見直すと炙り出されてくる地名がけっこうあるのだ。

これこそ「委奴」地名と思われる地名を探してみたら

あるわあるわの大特集は次回に m(__)m


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